Text:なぜ作品を作るのか

「なぜ作品を作るのか」との問いについて

美術というひとつの表現行為をする者は、創作の過程における精神活動の根底に「なぜ、作品をつくるのか」という問いを、創作行為を始めた瞬間から内在させている。また同時に我々は「なぜ、生きるのか」という命題を生まれた瞬間より内在させている。

この二つの問いを比べると前者の問いには、創作行為の過程においてという前提条件があり、後者の問いには条件の有無にかかわらず存在していると言ってよいだろう。「なぜ、生きるのか」の問いについてもう少し言うならば、この問いの中には現在の自己存在の生きることの意味を見いだせないでいるため、自分の内部に否定の気持ち(ある場合には死を想定する)が働き、このとき生じた危機感を平常に戻そうとする意識が働いている。

最初の問いである「なぜ、作品をつくるのか」は、現在芸術に関係していることを示すとともに、過去に自分が芸術を選んだ時点があったことを示している。だが、過去において芸術を選んだことの意味を問おうとするのは、ここでは無意味であろう。その理由は後にゆずるとして、ここにイギリスの哲学者であったウィトゲンシュタインによる次の言葉があります。「哲学を勉強することは、何の役に立つのか。もし論理学の深淵な問題についてもっともらしい理屈がこねられるしか哲学が、君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常生活の重要問題について君の考える力を進歩させないのなら哲学なんて無意味じゃないか」。これらの言葉は前のふたつの問いにおける問題点を含んでいると同時に、ひとつの回答を与えている。

これらの問題点は、過去において芸術や哲学を選んだことの意味を問おうとしているのではない。自己の歴史はストーリーとしてみた場合にも、経験としてみた場合においても、過去のある時点ではすべての出来事自体は、未来の方向性の価値、あるいは意味にとって有効であるかはなんら不確定であり、歴史自体は意味も目的も持ってはいないと同時に、芸術を行為することと生きること、このふたつの行為自体は、意味も目的も持ち得ない。過去における自己という存在が、その存在してきた連続の中で、ある行為や思考において意味と目的を持っていたとしても、現在それらの因果律を分析するかぎり、未来における目的と必ずしも一致しない感情や欲望の振れに左右され、また、存在の過程における瞬時の結果は、自身の情報収集能力以上の出来事、言いかえるならば偶然性を含んでいる。

そして、我々は現在を通じてしか未来には生きることができないという時間の法則をあわせて考えるならば、「なぜ、作品をつくるのか」という問いは常に自己の全体とつかもうとすることであり、方向を確認しようとすることによって、自身の存在の意味と価値を見いだそうとすることである。我々にとって美術を過去に選んだということは、もはや問題ではなく、今現在、美術を選びつづけていくことによって、自己の存在の意味や価値を、自己に向けて問いつづけることであり、ある場合には他者からも問われつづけるだろう。

また、ウィトゲンシュタインの言った意味において、我々はただ単に美術の歴史の中で作品を作っていくのではなく、美術の歴史を自己の歴史に内包しつつ創作する。また、作品を作る行為や作られた作品を、自己の内部で再認識し理解することによって、自らの観念を確かめ、未来における行為や作品を決定していく力にしていく。さらには、自身の人生においての様々な問題を解く力にならなければならない。しかし、自身の抱えている問題と自身に関わっている問題とが、本質的に結ばれていないかぎり、いわゆる「力」にはなりえないだろう。
 
これまでの問いに対するとき、我々の日常において外部からの様々な種類の力に対して、自己の存在を測ろうとするとき、明晰な知覚と意志がなければもはや世界と自己の関係は不明瞭となってしまう。自身の存在は世界と相関することによって実存できるのだから臨界関係を分析し知覚することなしでは自己の存在は、いっそう消失していくばかりだろう。

1974年3月25日
(2017年12月11日追記)